- ©2024「スオミの話をしよう」製作委員会
とても身近なよく知っている人、家族。あなたは同じ家に暮らすその家族のことを、どのぐらい知っていますか?「バカなこと訊くんじゃないよ、何年も一緒に暮らしてるんだ。よく知ってるよ」と思うかもしれない。でも、本当にそうだろうか?
この作品は、ある日一人の女性が姿を消し、その女性の、現在までの五人の夫たちが彼女を探す、という物語である。三谷作品らしくブットビな話が展開するドタバタなのだが、描かれているのはとことん「人」なのだ。それぞれまったくタイプの違う男たちと、その男たちを次々に夫にした一人の女。ここまで極端ではないにしろ、例えば私たちは誰もが、会社の上司と接するとき、兄弟と接するとき、親しい友人と接するとき、それぞれ違う顔を見せるはずだ。その人が本当はどういう人なのか、そもそも、「本当のその人」というのは存在するのか、皆目わからないのである。
本作では相手によって自分を変化させていく女性を長澤まさみが演じている。その名人芸を堪能しながら、いろいろな外面を集めた総体がその人という現象であることに思いを巡らせる。合わせて平野啓一郎の「私とは何か」という本を読むと面白いかもしれない。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
とてもミステリー風の予告編であったが、ミステリーではない。ぶっ飛んだ設定で展開する荒唐無稽な話を、極端な個性を持った登場人物で描いていくいわゆる三谷ワールドである。この作品の面白さはストーリーにはない。冒頭で姿を消した主人公スオミは、終盤まで登場しない。映画だと回想シーンも映像で描かれるため主人公の不在は感じにくいが、この映画、実に総尺の八割は主人公不在なのである。
面白いのは不在の主人公を語る存在が「かつての夫たち」である点。配偶者というのはかなり近い関係性であるし、多くの場合相手のことをよくわかっていると錯覚しがちだ。しかし一般的に家族というものを考えたとき、本人から見て唯一血のつながらない相手が配偶者である。あなたは、あるいはわたしは、本当に自分の配偶者のことをちゃんとわかっているのだろうか。
この作品では、冒頭で消失した主人公の、五人の配偶者が登場する。どの人物も、彼女の配偶者であった経験がある。それなのに、五人の語る「彼女」の人物像はまったく一致しない。たしかにここまで極端なことは現実には稀かもしれないが、多かれ少なかれ、このような差異は生まれるだろう。ある同じ人物を複数の人が語ったとき、どれも少しずつ違う方がむしろ普通だ。
このように相手によって自分の外面的印象を変化させてふるまうのがむしろ普通であって、個人というのはその多様な姿の総体である、という「分人主義」という考え方がある。作家の平野啓一郎が提唱している考え方で、彼の著書を読んでみると「分人」という考え方はとても実感的に理解しやすく、ごく当然のことに名前を付けた、という印象を受ける。この分人主義に触れた上で本作を見ると、ここに描かれているのはまさに分人なのである。
とんでもないレベルで分人を使い分ける主人公スオミ。終盤にようやく登場する彼女は、カーテンコール代わりのエンディングでレビュー・ショーのようなパフォーマンスを見せる。本編で卓越した演技力で5つの人格を演じ分けた長澤まさみは、このラストのショーで歌って踊る。まさに文字通り八面六臂の活躍を見せている。とどのつまり、この映画は長澤まさみを堪能するための映画であり、我々は惜しみなく披露される名人芸をただ楽しめば良いのである。