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誰もが知っている歴史的音楽家、ベートーヴェン。彼にまつわる逸話はいろいろあるのだが、その大部分の根拠となっているアントン・シンドラーによる伝記は、捏造と改ざんにまみれていて疑わしいとされている。本作はどちらかというとベートーヴェンではなくアントン・シンドラーの方に注目した物語で、いかにしてベートーヴェン像が捏造されていったのかを描いている。予告編から感じられるようなドタバタコメディではなく、依然として消える気配のない作られたベートーヴェン像に比して、あまり知られていないシンドラーの疑惑について紹介するような、大いに知的好奇心を刺激する作品である。
歴史というのは実際にあった出来事ではなく、記録されたことの積み重ねであるというのはよく知られたことだが、実際にどのようにして事実が歪められるのか、そのさまがリアリティを持って描かれている。ここに描かれている話も一説に過ぎないのだが、実にもっともらしい。もっともらしい嘘はしばしば真実にとって代わる。
本作はもちろん全編にわたってベートーヴェンの楽曲が散りばめられている。伝記が嘘であっても、残された音楽の偉大さはいささかも損なわれないだろう。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
予告編を見たときには、もっと悪ふざけみたいな映画を想像した。予告編の作り方がまずいとしか言いようがない。本編を見るとまったくふざけた映画ではないのだが、この映画の面白さがまったく通じない予告編になっていた。これはベートーヴェン像を捏造したとされるアントン・シンドラーに注目した物語なのだが、予告編を見る限り、ベートーヴェンを茶化して笑うドタバタ映画にしか見えない。実際のところ、私もそういう映画を想像して見に行ったのだが、期待は良い方向に裏切られ、もっと知的好奇心を満たす、非常に興味深い内容であった。あの予告編では、この作品に本来興味を持つはずの人に届かないのではないかと邪推する。
ベートーヴェンに関する逸話の多くが、どうやら疑わしいという話は私も聞いたことがあった。シンドラーの名前はまったく記憶に無かったが、伝記を書いた人物が記録を改ざんしたり、内容を捏造したりしたという話はなんとなく知っていた。本作はそのシンドラーに着目した作品で、どちらかというとシンドラーの半生を描く伝記的な映画であると言える。シンドラーのエピソードは、彼の書いたものがその後のベートーヴェン研究の根拠とされていたこともあり、捏造した記録を残すことが後世に大きな悪影響を及ぼす例としても重要な例である。この作品はそのような意味で重要な問題提起でもある。現在、AIがもっともらしい文章を次々に生成している。そうした文章を根拠にもっともらしいことを述べる人が増えたり、あるいはネット上の記事がまるごとAIによるものだったりもする。こうした情報が溢れかえってある程度時間が経過すると、もはや何が正しいのかわからないという事態は訪れるだろう。すでにそうなっているという見方もある。真実を知る者が一人もいなくなれば、残された記録が真実を語るものになる。それが捏造されたものであるかどうか判別する方法が無ければ、もはや真実を突き止めるすべは無い。この映画が描いている物語によって、今我々の目の前にある問題の重さに改めて気づかされるのである。