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中学卒業後、住み込みで働き始めたのが自転車店。当時の車両は、鉄製フレームに実用性重視の無骨なデザインで、価格も高く、新聞配達や資材の運搬など業務用として利用されていました。
北海道では冬期間は自転車修理の需要はありません。職人として経験を積みたかった和田さんは、22歳で単身東京へ出ます。あてもない上京でしたが、たまたま同郷の店主が営む自転車店を紹介され、3年間働きました。実用品としての自転車しか知らなかった和田さんは、そこでレジャースポーツ「サイクリング」に出会います。阿佐ヶ谷~鎌倉間を走る大会にも出場し、自転車で走る喜びに目覚めました。
昭和40年代になると、旭川でも本格的なサイクリング車が店頭に並ぶようになりました。従来品よりタイヤが細く、変速機のついた外国製モデルで、当時はフレームやサドル、ペダル、スポークまでバラバラに納品されたため、それを店で組み立てました。東京での経験から、すぐに構造を理解した和田さんは、さらに独学でサイクリング車の勉強に打ち込みます。「自転車は乗る人の体に合わせた調整が大切。ボルトはゆるすぎても、締めすぎてもダメ。チェーンの油も余分はふきとった方が摩耗も少なく長持ちする。すべて経験の中で気づいたことです」。
プライベートで自転車に乗る時間も大切にしてきました。網走から旭川まで1日で走破したこともあります。監督兼メカニックとして、国体には13年連続出場。大会では、他地域の選手の自転車整備や、メーカーブースの手伝いも頼まれました。
競技用車で培った技術は、普段使いの自転車の整備にも生かされています。組み立ての不備や、ボルトのゆるみなどは、車両を持っただけで分かります。平成19年には、難関の「スポーツバイク・メカニック」の試験に合格しました。
和田さんは、旭川の観光レンタサイクルの整備を50年近くボランティアで続けています。きっかけは、ある会合で当時の市長に和田さんが提案し、サイクリング協会からの陳情として実現した全国初のサイクリングロード(神居古潭)開設でした。和田さんは週1回そこに通い、故障した自転車をその場で修理するなどパトロールを続けました。「あのコースには愛着があってね。整備とパトロールをライフワークとして取り組みました。大勢の人がサイクリングを楽しんでいる姿はいまも忘れられません」。
自分のペースで風を感じるサイクリング。和田さんが20代で出会った感動は、半世紀を経て、旭川でも多くの人が感じています。
和田サイクルスポーツ 自転車技師